どうもSOMAです。
今回は機材レビューではなく、写真の好みと、編集の考え方の話です。
僕はX-E5を使っています。約4020万画素の高画素機で、細かいところまでしっかり写る解像感が気に入っています。
なのに、写真を仕上げる段階では、Lightroomでフィルムグレイン(粒子)をかなり強く入れています。せっかく細かく写っているのに、わざわざ粒子でざらつかせる。高画素機を使っておいて、これって矛盾しているんじゃないか。最初は、自分でもそう感じていました。
この記事では、なぜ粒子を足したくなるのか、そしてその矛盾に僕なりに出した答えを書いていきます。
粒子を入れるようになったきっかけ
Lightroomで現像するようになったのは、去年くらいからです。
もともとは、高コントラストの写真が好きでした。黒がしっかり締まっていて、パキッとした写真です。でも、編集を続けているうちに、だんだん低コントラストで仕上げるようになっていきました。
低コントラストの写真は、やわらかくて好きです。ただ、どこか物足りない。何かが足りない感じがずっとありました。
そんな時に、いろんな人の写真を見ていて、ふと思ったんです。グレインを入れたら、自分が思っている絵になるんじゃないか。試しに入れてみたら、それがすごくしっくりきました。それからは、ほとんどの写真に粒子を入れています。
なぜ粒子を足したくなるのか
ここは、はっきりした答えがあるわけではありません。あくまで、僕がそう感じている、という話です。
粒子を入れると、光の段階が滑らかになるような気がします。明るいところから暗いところへのつながりが、少しやわらかくなる感じです。
もう1つは、くっきり写りすぎていると、見えなくていい部分まで見えてしまうのかもしれない、ということです。人の目は、普段見ている景色を、意外と自分で補正しているのかもしれません。高画素のカメラは、その補正されているはずの部分まで、はっきり描写してしまう。だから、写真を見た時に、どこか違和感を覚えるのかもしれません。
そこに粒子を入れると、人が見ても違和感のないノイズが加わります。そのノイズが、かえって写真をいいものにしている。そんな気がしています。
いつもの設定
Lightroomの「粒子」は、いつもだいたい次の設定にしています。
- 適用量:40くらい
- サイズ:40くらい
ピントが少し甘かった写真の時は、適用量を50くらいまで上げることもあります。粒子が増えると、ピントの甘さが目立ちにくくなるので、写真を救うための使い方もしています。
同じ写真で比べてみる
同じ写真で、粒子を入れていないものと、入れたものを並べてみました。


ブログの画面だと、全体の写真では違いが分かりにくいと思います。一部を切り出して拡大したものも並べておきます。


高画素なのに粒子を足すのは、矛盾なのか
最初に書いた矛盾の話に戻ります。
高画素で撮っておいて、粒子でざらつかせる。もったいないと、僕も一瞬は思いました。でも、よく考えてみると、グレインを入れる機能はカメラそのものに最初から入っているんですよね。
X-E5にも「グレイン・エフェクト」という機能があって、強さは強・弱・OFF、粒の大きさは大・小から選べます。(参考:富士フイルム公式 X-E5 仕様)撮った時点で粒子を入れられるように、カメラのほうが作られているわけです。
高画素で細かく写して、そこに粒子を足す。これは矛盾ではなくて、富士フイルムがもともと想定している使い方なんだと思います。富士フイルムは、最初からそういうカメラを作っている。だとすれば、Lightroomで粒子を足すのも、富士フイルムの考え方にちゃんと乗っかっている。今は、そう考えるようになりました。
僕にとっての「画質」とは
「画質がいい」には、いろんな意味があると思います。
たとえば、ソニーのカメラにGMレンズを付けて、バキバキに解像させた写真。ああいう写真は、CMのような広告で使われるイメージがあります。広告の写真に求められるのは、いかに人の目に留まって、美しく見えるか。そういう意味で、パキッと写ることが「いい画質」になるんだと思います。
一方で、記憶としての写真に求めるものは、少し違います。見た人がノスタルジーを感じるような、感情に訴えるもの。僕はそう思っています。
そう考えると、記憶としての写真は、ある意味で写真でなくてもいいのかもしれません。それこそ、絵でもいい。
それでも写真でそれを作ろうとすると、色をアーティスティックにしたり、画角を工夫したり、グレインを入れたりすることになる。僕にとっての粒子は、そのための手段の1つです。
まとめ
高画素のX-E5で撮って、Lightroomで粒子を足しまくる。一見、矛盾しているように見えるかもしれません。でも、富士フイルムのカメラは、最初からそういう使い方ができるように作られています。
解像度が高くて細部まで写ることと、自分が好きな写真に仕上がることは、必ずしも同じではありません。
ある意味で僕は、記録としての写真を撮るのをやめて、記憶としての写真を撮るようになったんだと思います。

